京つう

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Posted by 京つう運営事務局 at

2012年05月14日

眠れる京都人の知恵復活

眠っていた猿がよみがえりました。

京都食文化研究会 京都くいしんぼう会設立30周年

京都国際レストランネットワーク
京都国際映画音楽文化ネットワーク
京都国際音楽家舞踏家ネットワーク

みやこであることが、京 都 府 の みりょく

石器時代ころから 修学院から一乗寺あたりに集落ででき始めました。

倭の都作りに「タニハ」の地域や「ヤマシロ」は大きな役割を果たしています。

ヤマシロの民は倭の中核に入っていましたし、貨幣経済が定着し国家組織が確立されるまでの時代は、地域の特産品が集められ、都に運ばれたり 道の駅で交換されたり


特産品は部に集められました。綾部 園部 などの部はその名残。
大和の役人にもなっています。
タニハは丹波となり丹後も生まれました。
ヤマシロは山城になりました。
渡来系氏族が多くすんだ地域は、様々な都作りに重要な存在でした。

北野天満宮で有名な菅原氏は土師氏でした。
上賀茂神社の加茂氏もこの地域に地盤を作りました。

水の便がよかったヤマシロは船舶が行き交う内陸の恵まれた地域
今でもいろいろな都です。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 20:14Comments(0)小山晶之の京都論

2007年10月16日

村田珠光と禅

茶が、日本に伝わったのが、「禅宗」の僧侶の手に寄った事は、『喫茶法』を、最初に確立した村田珠光にとっても、これこそ『禅』の一つの形と移ったのだろう。ただの飲み物ではなく、体に、そして精神にお茶は良いものとして、様々な確立までの、歴史を歩む。
 織部などに代表される大名茶。とは別に「民間の茶」は、浸透して行く。
千 利休は、気が付けば、多くの側近に囲まれていました。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 23:24Comments(0)

2007年10月13日

そばを、うっていたカズさん

学生時代、喧嘩とは縁がなかった。
社会人になってもけんかは・・・?
そんな中、出会った蕎麦打ち名人と呼ばれたのが、大槻さん。
後は、黙って付いていくのみ。
  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:51Comments(0)米・野菜・食材の都 美福の章 エピローグ

2007年10月13日

小学校博物館にいきましょう。

オープンした頃に、お店に行きました。ヨカッタネ!
ところで、彼らが行くのは・・・・・・
  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:46Comments(0)学問・学校の都 陽明の章 弟10章

2007年10月13日

栄西上人と建仁寺

日本に茶の文化を伝え、都周辺には、茶畑が出来ていった。
「建仁寺」は、煎茶茶道の伝統を、受け継ぐ。
1202年(建仁2年)に栄西上人によって建立されたこのお寺は、臨済宗建仁寺の総本山として、禅宗京都五山第3位に位置づけられている。
今日、私たちは、普通にお茶を飲んでいる。『茶道』とは、無縁の人間でも。
元をただせが、体にもいい薬とみなされていたのだろうが、お茶が日常飲めるようになる為には、当たり前の事だが、かなりの茶畑が作られ、製法なども確立されなければならない。
 ご承知の通り、中国には、計り知れないほどのお茶の技法と種類がある。岩の上にあって、常に警備員に守られている幻のお茶もある。
 ただ、茶畑を作って育てました。と簡単に言えることではない。
この時代に京都近郊でお茶が栽培されるようになって、後に茶道が生まれるわけだが、「建仁寺」は、煎茶の流派にとって、特別の存在である。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:42Comments(0)心美道の都 達智の章 第8章

2007年10月13日

白虎

京都は、西の愛宕山 東の比叡山のように、西の桂川東の鴨川のように、東西で対比されるが、西は、山ではなく山陰へ抜ける道とされており、私が、西の鯖街道の話を書いたが、亀岡経由の道は、必要と考えられたが、ご存知と通り南は、元々抜けており、東は多彩な勢力が行きかう道だった。
これも、東は、東海道に抜けており、西は亀岡まで行くのは、精一杯です。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:33Comments(0)神々の章 偉鑒の章 第7章

2007年10月13日

朱雀

元々京都の大内裏の真ん中の南門が朱雀門で、そこから羅生門まで一直線に伸びたのが、都の中心を走った「朱雀大路」。南の守り神。南には、巨大な池が求められていたため、巨大な「巨鯨池」は、まさに南のシンボルがった。城南宮が、南の守り神とされ、現在も平安時代の再現が、祭り・行事に残されている。
 そんな京の町が、「巨鯨池」を干拓してよかったのだろうか?
近年、伏見と一体となって様々な「水の都伏見」の再発見プロジェクトがスタートしている。
 人が、自然を帰られると思うのは、大変な驕り高ぶりである。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:23Comments(0)神々の章 偉鑒の章 第7章

2007年10月13日

青龍

平安京の都創建当時、秦氏と並んで有力だった氏族「鴨氏」。
西は、桂川・東は鴨川。まさに上賀茂・下鴨に代表される鴨氏の領分。もっとも、下鴨は、当初出雲氏の領分だった。平安京創建の頃には、鴨氏の勢力範囲となっていた。東を守るのは清流とされており、当時西の端は、鴨川とされた。もっともかなり早い時期から東に住民か固まって居住するようになり、六勝寺の頃には、今の岡崎公園周辺は、桓武天皇が建立した「岡崎神社」が、建立された。
東山には、様々な青龍伝説があり、そんな背景があるのか人気小説「鴨川ホルモー」は、「京都大学青龍会」のメンバーの話が主題になっている。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:12Comments(0)神々の章 偉鑒の章 第7章

2007年10月12日

京都人何者?

51歳の誕生日を迎えました。51歳という年齢を皆さんどう考えますか?
昔は、人生50年。で、もう人生が終わってしまいます。
今は、80~90歳が普通となりましたが、ご承知の通り、私の人生は、108歳まで生きる予定。
自分で、108歳までの人生計画をたてているので、50歳は、まだ折り返し地点にも到達していません。20歳で何を実現する。30歳で何を実現する。40歳で何を実現する。と、10年単位で目標を作ってきたので、50歳で今ひとつの目標が、実現できるところまで来ました。
そんな私は、すでに次の目標に向かって動き始めているわけですが、このブログ。50歳の間に書く。といった、ブログのテーマは、京都人の知恵。
それは、日本という、世界の様々な文化を学びながらも、独自の文化を生み出した日本の歴史的中枢にあって、実は、日本各地から。時に世界からこの都に集まった人たちの智恵の結晶。
 この町に住む人は、すべて京の都に住む都人。
学生で来たり、仕事できたり、神社仏閣関係できたり、映画・演劇の活動で来たり、料理や工芸の修業で来たりして、いつしかこの町の魅力に取り付かれて住み着いた人たちが住む都。
 東山松原通りに「黄匠桜」という、和中心に洋の料理が入ったすばらしい町屋のお店があります。
料理長は、中国系のマレーシア人。しかし、彼の料理に、マレーシアも中国も感じられません。
 日本料理に魅せられて和食を修行し、外国でフレンチの洋を学び、でもやっぱり店をやるなら京都でと、探し回って、立派なお店を借り受けて店にした。そこには、近未来の日本料理が感じられます。
 京都大学で、「数理生態学で博士号」を取ったイゴール・ライラ。コンピューターの本業で、アメリカや東京でいい仕事がいっぱいあったのに、母国の文化を料理で伝えて知ってほしいと開いたのが、スロベニアレストラン「ピカポロンツァ」。アメリカ・イギリス・ガボン大使館などで、料理人を歴任して、故郷の料理と開かれたアフリカ料理「アシャンティー」。まもなくリニューアルオープンするレサさんのアゼルバイジャン・イラン料理もラジャスさんのインド料理も馬さんのモンゴル料理も皆京都へのこだわりを持っています。皆、自分を持っているから。そして皆「京都」が好きだから。
 だから皆「京都人」。・・・何年前にきゃはりました?12日前?12年前?120年前?1200年前?  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 02:02Comments(0)知恵の都 朱雀の章 プロローグ

2007年10月09日

海から遠い平安京

京の都は、海から遠い。もちろん川や湿原・池はあったが、『平安京』には、東西2つの「サバ街道」琵琶湖からの淡水魚。枚方位まで要りこんでいた大阪湾の海の幸もあったが、都の周辺は、田畑になっていった。東湿地帯は、埋め立てられて都市部に組み込まれる一方、桂川などの氾濫もあり湿地の住みにくさを改善できずに、当初の右京は、放置されていった。穀物などは、南の美福門から運び込まれたという。

もうお分かりでしょう。12章は、最初の平安京の門に由来しています。そして、それぞれの門の特色から、14章別にテーマを決めました。

更にお気づきだと思いますが、どのテーマも、「京の都」を、ジャンル別で表現しています。
14以外に、あなたにとっての都もあるでしょう。「○○の都」一様10月11日までに書き上げる予定で、14章来ましたが、各章への書き込みは、10月12日・13日を過ぎても続けます。
12日が、私の51歳の誕生日。13日が、家内の○歳の誕生日。31日が次女の○歳の」誕生日。
ちなみに、長女は、1月31日が○歳の誕生日。我が家の女性3人の誕生日は、数字の組み合わせが同じなのです。男の私だけ1つ足りないなんて、染色体みたい。

平安京は、現在の位置に移るまでに、天皇の住まいは、やや移動しています。通い婚が一般的な時代に、藤原氏が、勢力を持ち、平家もそうですが、周辺に屋敷を建て、寺院を建立しました。

図面どおりの平安京の形に、実際になった事は、なっかたそうで、大内裏から東へ、町が広がっていきました。今日までの様々な歴史を、テーマ別で考え、その中から「京都人の知恵の遺伝子」を探って生きます。   


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:44Comments(0)米・野菜・食材の都 美福の章 エピローグ

2007年10月09日

歌司と雅楽の門

都には、儀礼の為の歌司や雅楽と部署が、内裏の南西に置かれていた。その結果、近くにあった郁芳門(いくほうもん)は、通称「雅楽御門」また「歌司御門」などと呼ばれた。今日私の友人も、雅楽の保存会に参加し、時に京都御所で演奏している姿を見に行ったが、一つ一つの時代の中から、取り入れられて、そのすべてに居場所があるのが、「京の都の文化であり、京都人の知恵である。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:20Comments(0)音楽の都 郁芳の章 弟12章

2007年10月09日

シャチホコのある門

平安京の都の内裏に、シャチホコのついた門があった。
播磨国の建部氏の手によって作られた、待賢門である。
通常の、車寄せでもあったこの門に「手車」で駆けつけて、一部の特権階級以外は、ここで車を降りたそうだ。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:12Comments(0)名建築の都 待賢の章 弟11章

2007年10月09日

内裏の門12?14?

日本の都は、中国をモデルにして作られたコピーだったのは、『長岡京』まで。
門も12門とされ、12の干支・時刻・方位すべてが、規則のも続いて構成されていた。
平安京も、周囲の神社。岩倉。などが配置され、計画的に作ったはずだが、早々に、現実的に改良された。その例が、14門になったこと。
陽明門は、備前の山氏によって作られた。
有力氏族が作り、守った。
ところで、「陽明学」は、民代の王陽明に由来するので、平安京とは、時代が前後する。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:04Comments(0)学問・学校の都 陽明の章 弟10章

2007年10月09日

陰陽道の賀茂忠行

陰陽道は、平安京において立派な役職を与えられた賀茂家のある意味天文学をはじめとする重要な学問であり、いわば科学の始まり始まり的役職を持った人材育成学のようなもの。
今の科学技術+気象の省見たいな物。
そこで、優秀な為に、高く評価されたのが「安倍晴明」。最も、彼の末裔は、やがて官職を継いで行くが、賀茂家の受け継いだ天文学の知識に乏しかった為に、後にこれを吸収して地盤を安定させていく。ところで、陰陽師「安倍晴明」の墓は、『晴明神社』ではなく、『東福寺』にある。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:55Comments(0)科学の都 上東の章 弟9章

2007年10月09日

茶を飲む

茶が中国から伝わり、京都で作られるようになったが、内裏の北東の角には、茶園も作られた。
最初は薬用で、煎茶の文化、そして抹茶の文化。
誰もが知る日本におけるお茶の歴史は、やがて禅と交わり、茶道の道が開けていく。
華道・香道と共に。芸術の一言でも表現できない美意識と精神性。
私は、この都で花開いた世界を、芸事という表現でも表せない、限りなく宗教に近い心の修行の要素を強く持った世界を、私なりに『心美道』と表現している。
演劇や音楽が、縁者の内面から周囲の人に直接伝わっていくのに対して、心美同は、人の内面に深く染み込んでいく世界だと思う。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:39Comments(0)心美道の都 達智の章 第8章

2007年10月09日

玄武

京都の北に宿る。平安京の都を守る北の要として祭られた。
玄武は、蛇と亀を意味する。元々船岡山から見て作られたこの山こそ都を守る玄武そのものである。
大内裏の真北に位置する「偉鑒門」。開かずの門ともいわれるこの門は、北への備えとして「玄武門」とも呼ばれた。平安京の全体像を見たとき、内裏から南へ都が作られる。中国では、内裏の周辺なども防御の為に囲われて、門が作られたが、文字通り北は、開かずの門。
日本において、長岡京までは12門だが、平安京になって14門になった。
なんと北の東西の土塀を、物資の運搬がしやすいように、開けてしまったのだ。なんと安全神話がその頃すでに芽生えていたのだろうか。
各門は、北陸や東海山陽道などの有力者に命じて門を作らせ、門によって警護の形態も異なる。
有力者の顔ぶれをみると、当時の強力な支配地域が見えてくる。
平安京は、ようやく安定した都の始まりでもあり、争いの幕開けでもあった。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:24Comments(0)神々の章 偉鑒の章 第7章

2007年10月09日

平安京は、なぜここに?

京都に生まれ育った私たちは、なぜ京都に都が作られたのかを、深く考える事はあるのだろうか?
水の話の中で、平安京建都の時。舟岡山から見て朱雀大路を中心に、桂川・鴨川の間に広がる盆地に、都が作られた。三方山に囲まれ、南は当時鳥羽が湿地帯と池。白川しかり。神泉苑しかり。船は、枚方まで「くらわんか船」が来ていた。(名前がいい。この名前をとったお店の天麩羅は、ごっついで!)。
 しかし、その前に、権力者となった藤原氏の旧姓は?中臣氏。そんな地名が山科にありましたよね。
菅原氏は、土師氏。そういえば、平安京の南西は、土師氏の勢力圏。北東の秦氏派、松尾大社との関係も。。
 もうひとつ。桓武天皇のお母さんといい、百済系の人脈が見え隠れするのは、私だけでしょうか?  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 02:23知恵の都 朱雀の章 プロローグ

2007年08月02日

京都は世界の食の都

京都が、世界の食の都になるのは、ある意味当然の結果である。
京都は、日本文化や学術・先端技術などの様々な研究機関が無数に存在し、ほぼ全世界から留学生や研究生、研究者が来訪したり滞在している。多い国で1万人ぐらい日々滞在しているそうで、逆にめずらしい日本7人しか滞在者のいない国のうち4人が京都にいるときいて驚いた。年間膨大な外交からの来訪者があり、中には京都が気に入り、時に京都で日本人と出会って結婚したりいろんな理由で、京都に定住して、自宅は、京都の母国を結ぶ交流の場になり、やがてその中でお店を持つ人は少なくない。彼らにとって、店は、母国文化を紹介する場でもあり、生活の場でもある。同様に日本人でも海外に行って、自分の好きになった国にこだわり、やがて店になっていくケースも少なくない。
すばらしいのは、京都に世界のほとんどすべての国のどこかに興味を持ったり、こだわっている人が、住んでいる事実。世界のどこから来ても、この町には、あなたの国や街や文化に惹かれているひとが、いますよ!行けば、家に帰った安らぎを感じる場がありますよ!
それは、京都が、日本の様々な伝統や文化を大切に守りついで来た街だから。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:09食の都 皇嘉の章 第1章

2007年08月02日

京都の食の物流拠点

皇嘉とは、平安京を内裏を囲む十四の門の一つ。モデルとなった中国の都も平城京も内裏の内門は、12.干支の数でもある。ところが、京都最初の平安京の内裏は、12門のつもりだったが、物資運搬用に東西の北に壁をぶち抜いた通用門を2つ造った。結果14の門が記録されている。
アスニーにある平安京の模型。の解説などでも。平安京の前傾は、あくまでも計画的な推定図であり、実際、すべてが規則正しく完成する前にさまざまな事情で町並みは崩れ、特に西は水害や地盤の問題から、やがて多くの人が東を整備して移り住んだために、平安京は、東に大きくずれ込んでいく。西の当初の平安京は、田畑として利用され最終的に都全体の枠踏みもかわるわけだが、当初の内裏の皇嘉門は、現在の七本松あたり、朱雀大路は、JRとこかぶるが千本のやや西側。JRと周辺の土地が住宅密集地で無かったおかげで、京都への鉄道時代の食の物流拠点として中央市場が整備された。現在、北に梅小路車庫が鉄道マニアの記念館的空間になっているが、南は大阪ガスタンク周辺が、「京都リサーチパーク」になって、市内の一大研究機関の集合体になっている。
  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:55食の都 皇嘉の章 第1章

2007年07月14日

智恵の都京都人の遺伝子 後半まもなく開始

京都の料理に関して「くいしんぼうの会」
京都の芸術に関して「円山陶芸協会」
京都の祭り・行事に関して「京都口先案内人」
と3つのブログを書いてきた私が、今年10月までの限定で
「京都の都」を、14のテーマに分けたブログを書き始めた。
14のテーマは、平安京の14の門の名前に由来し、14の門にゆかりのテーマを選んだ。
14合わせて結論を申し上げると、15番目のメインテーマ「智恵の都京都」になる。
新しい書き方として、14のテーマは、順にスタートするが、それぞれに書き足していく。
各章を、カテゴリーで分けているので、カテゴリー別で読んでいただくと、先に書いたものから、ストーリーになっている。
 最初一気にスタートしたので、少し休ませていただいたが、山鉾巡行を機に、後半をスタートさせて、夏に一気に進む予定。10月11日に書き終える予定だ。お楽しみに!  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 03:00知恵の都 朱雀の章 プロローグ