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歴史・文化・祭り  |洛中

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Posted by 京つう運営事務局 at

2007年04月30日

藤森神社は・・・

我が家は「藤森神社」の檀家です。
今日男子の節句として武者人形などを飾る習慣は、この神社から生まれました。
馬の神事でとても人気の祭礼です。
子供の頃、行列が車で走っていきました。
少しは昔の雰囲気が戻ってきたようです。
実に勇壮な御祭りです。

http://www.genbu.net/data/yamasiro/fujinomori_title.htm

日本の「節句」の神事の原点をご鑑賞ください。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:59馬の都 談天の章 第2章

2007年04月30日

下鴨神社のやぶさめ神事などに新木宮司がお話。

まもなく開かれる下鴨神社の祭礼。
宮司が、定期的にブログでお話されているので、読んでみてください。
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/guji/

下鴨のやぶさめ神事に参加する馬は、京都の京北の牧場の馬だそうです。
今回特別公開されている「河合神社」は出会いの神社。現在特別公開中。
定期的に、「ポニー馬車」が境内を闊歩しているのは、この牧場の関係者のおかげです。
古本市の舞台にもなる。時にデートコースに。時に時代劇の撮影の舞台に。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:45馬の都 談天の章 第2章

2007年04月30日

上賀茂神社の競馬

いよいよくらべ馬が始まります。
学生時代わくわくしてお手伝いしました。
競馬と書きます。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/kurabe.html
あらかじめオッズのように馬枠が発表になります。
ファンファーレは鳴りません。
  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:27馬の都 談天の章 第2章

2007年04月28日

パリコレが生まれる京都

昔、パリ・ニューヨーク・京都を目指す3人のデザイナーの卵がいた。
やがて一人は、京都の着物デザイナーに。一人はパリに生活の拠点を置き、
もう一人は、ニューヨークのショーのゲストに選ばれた。

スタッフとしてNYにくる?と聞かれた。パリからは、遊びにきてねと電話がかかってきた。
若い頃、京都の染色工場で、パリで有名なデザイナー達のブランドが染められている職場で
働いた事がある。あの人も・この人も。最初は驚いた。パリや東京で暮らしているのに。
京都でプリントしているの?結局技術力が高いからだそう。

確かに、染めや織でも、他では真似のできない技術を持った会社が京都にはたくさんある。
「京都プロデュース協会」に一人として、あるとき錦市場でのファッションショーに参加した。
チーフプロデューサーは、京都在住のパリコレのカメラマン。デザイナーもパリなど海外で
活躍している。若冲も生んだ「錦市場」が舞台になっているのも面白い。
京都は常に時空を超えた人間の英知の溜まり場になっている。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:18ファッションの都 上西の章 第5章

2007年04月28日

京都の和装を動かす近江商人の拠点

京都の室町・新町。いうまでもなく。呉服問屋が軒を連ねる。
信長・秀吉の」時代に楽市楽座に代表される全国」を又にかけた流通を握って、
江戸・浪速にも兜町・ドブイケ。

商社や百貨店などに展開する商人たちの拠点として、京の町は和装の拠点となった。
そこから生まれた洋装ブランドも様々な展開をしている。
何よりもこれは、流通を牛耳ってきた近江商人たちの努力の賜物。
彼らの存在を無視して京の都の繁栄はなかっただろう。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:06ファッションの都 上西の章 第5章

2007年04月28日

平安京ができたころ

貴族などが着る服装を専門に管理する部署がつくられていた。
唐の都。遣唐使によって、当時の日本は中国の最新の流行や儀礼に使う様々な様式を取り入れた。そしてここに決定的な事実誤認があった。
日本史の授業でならったこんな事を思い出してほしい。
正倉院にも伝わった、「ペルシャ三彩」が「唐三彩」になり「奈良三彩」になったと。
ここには、事実誤認がある。
中国の歴史の中で、シルクロードの文化交流は、日常のものではあるが、唐の初期にペルシャは勢力を失うなかで、中国に多くの人々が亡命した。唐は「胡」の文化を、当時の流行のごとくに取り入れた。服装のその一つ。三彩も。ところが、やがてこのブームは中国では消えてしまう。
日本は、これを受け入れ、最先端の中国文化を取り入れた。
日本は、歴史的に様々な最先端の文化を受け入れ取り入れる。やがては日本文化の中に納まって伝えられていく。ペルシャや中国で失われた文化や技術が、保存されていくのだ。その最先端が平安京に伝わった。大和派と親中国派の戦いだ。吉野から植えられた桜と中国の象徴の梅の対決。
やがては、桜が花開いていく。しかし梅の残した上で。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:57ファッションの都 上西の章 第5章

2007年04月28日

京都のみやこを育てた治水技術

京都に平安京の都ができた頃、東の方は湿地帯だった。
徐々に干拓されて都は東へ広がった。
現在の桂川も鴨川の治水の結果だ。近年には、更に角倉了以によって、高瀬川が開かれ、荷物の運搬に利用された。元々、枚方までは、大阪湾の船が、「くらわんか船」の名が残る辺りまで海運が盛んであった。更に琵琶湖からの疎水・インクラインの整備。私たちは今、南禅寺・哲学の道。白川・高瀬川など京都の街中にたくさんの水との調和した風景や生活を楽しむ事ができる。
その一つ一つに様々な苦労と知恵の結晶があった事を忘れてはならない。蹴上の浄水場の一角につくられた資料館。一之船入りのや伏見の港の再現。忘れられていた水の都の歴史が再認識されようとしている。水を失った堀川に水を取り戻す計画。「みたらし祭り」や「三船祭り」「御香宮の祭礼」などで、水の都を再認識してみんなで保存のあり方を考えてみよう。
「神泉苑」にみやこびとは、何を想ったのだろうかと。「大沢の池」「広沢の池」水文化は、京都の誇りです。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:41水の都 藻壁の章 第3章

2007年04月28日

京都の地下水が名水なのはなぜ?

御所の鬼門と呼ばれた「梨乃木神社」には、いつも行列ができている。
大文字に登る途中にも有名な名水が、
貴船や清滝に行く途中にも、
御香宮・清水・伏見・京都には名水が湧き出る場所が山ほどある。

名水が、京料理・豆腐・京野菜・酒・そして京友禅など京都の文化を生んできた。
豊富な水脈は近年の調査でも、鉄分など不純物の少ない軟水である事が証明されている。
この水の性質が、琵琶湖の水脈を利用し、治水の技術で取り入れた水資源と2つの水質の
水資源を持つ事で、更なる豊かな文化を育んだのではないだろうか。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:25水の都 藻壁の章 第3章

2007年04月24日

伏見の水資源と水フォーラム

大阪・滋賀と組んで、京都の為のブログをスタートしました。
  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:30水の都 藻壁の章 第3章

2007年04月23日

京都の地下水脈と酒・豆腐・和食文化

京都は、滋賀に匹敵するほどの水脈が地下を流れている。

元々、京都と滋賀は比良山系の豊かな水脈を共有しており、
京都府はまさに京都の都の水脈そのもの。
銘酒を生んだ伏見は、元々伏水と書かれ、その名水を使って弥生時代の米文化が伝わった頃から、
酒造りが行われていました。http://www.fushimi.or.jp/5_mamejiten/index.html
京都の旧市内も豆腐を始め、地下水脈を利用して造り酒屋も作られてきました。
サントリーがウイスキーを造るにあたり、大山崎を選んだのも西山の水脈を利用したもので、
北に広がる水源が、平安京の都を開く頃は、特に東や南は湿地帯でした。私が子供の頃は、
伏見にもたくさん池があったと記憶していますし、船岡山から真南に朱雀大路を開いた頃から、
徐々に東が様々な土木技術の導入によって宅地化し、都は東に移動して拡大していったわけ
ですが、近年、大阪・滋賀と組んで、「水フォーラム」を開いて共通の水脈を持つ3都市が
協力していく流れができてきました。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 23:29水の都 藻壁の章 第3章

2007年04月20日

日本人は、どこから来たのか?

日本の歴史を学ぶとき、縄文や弥生は他国の歴史のようで、飛鳥そして大和。
平城京・・・・・・そして平安京へと歴史が続いている記述になっているが、そうでしょうか?
基本的に、大和は、日本の国家統一し、今日まで続く日本社会の中心となった天皇家を核とした
歴史の記述になっている。

ちょうど、アメリカインディアンがいるのに「新大陸発見」とか、欧米の歴史家が書き、
日本でもそれを学んだが、同様に、飛鳥・大和の時代には、日本各地に天皇家中心に
国家統合していくのには、それぞれに別の各地の集団の歴史が本来記録されるべきで、
京都に都が移った頃から、様々な美術運動も京都で起こった。

『日本人は、どこから来たの?』

それは、波状的に中国に移り住んだ白系ロシア人の伝統が中国経由で、日本に入る。
 しかし、中国も今日世界の急激な変化に対応するのが精一杯。
元々、世界に広がったきっかけは、世界に広がる中国人のネットで更に強固になる。

朱雀の章2  続きを読む


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 01:21知恵の都 朱雀の章 プロローグ

2007年04月17日

競馬の好きな都人

京都の淀に競馬場があり、開催日には多くの競馬ファンで周辺はごった返している。
もう一箇所祇園の花見小路の場外馬券場にも多くの人が詰め掛ける。
一般的に花街や祇園は日曜休みのところが多いだけに、普段とは別の街に変身するかのようだ。

ところで、現在一般的に競馬というと、イングランド発祥の西洋競馬を指しているが、
京都の都人は、平安京の時代から、競馬を楽しんできた。
京都では、競馬と書いて「くらべ馬」と読む。また「駆け馬」もある。
平安貴族にとって馬比べは、楽しみの一つだった。

馬の都 談天の章 第2章
詳しくは、続きを読んでください。  続きを読む


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:51馬の都 談天の章 第2章

2007年04月14日

世界の食は京都から

京都には、「錦市場」という有名な市場がある。
しかし、今回の主役は、七本松と大宮通り。
平安京の都が、最初の内裏が後に東にずれたので、
本来中心を羅城門まで走っていた朱雀大路が西の通りになったりしているが、
現在七本松には、京都の中央市場が市民に食材を提供している。
京都は、近郊農業や丹波方面からも多くの食材が運ばれていた。
今日出町商店街は、途中を越えて若狭に抜ける
「鯖街道(さばかいどう)」で有名だが、実は、四条大宮辺りから高浜までの西のサバ街道が存在した。
南は枚方方面からの海の幸。北は東西2つのサバ街道。
そしてお隣の琵琶湖。更に「京野菜」に代表される近郊野菜は、品質を高める京都近郊農家の鍛錬の賜物。
「京料理」は、宮廷料理・精進料理・懐石・庶民のおばんざい様々な文化に当時導入された外国文化が取り込まれている。
すべて海から遠い京都の保存食の文化も加工技術となって開花した。
更に京野菜は元々育て方に様々な創意が取り入れられている。
しかし、和食文化の中心的町が近年大きく変貌し始めた。

詳しくは続きを
第一章 食の都 皇嘉の章   続きを読む


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:36食の都 皇嘉の章 第1章

2007年04月13日

あなたも今日から京都人

知恵の都京都へようこそ!

ここは、140万「みやこびと」が暮らす京の都。
そして260万「トリプルみやこびと」の京都府民の暮らす山紫水明のみやこ。
(京都府の3文字はすべてみやこを指す文字)。
さては、いつから都人の仲間入りをしたのか?あなたは本当の京都人?と聞く人もいるが、そうです。
私は京都人です。と答える人の方が珍しい。
なぜなら大抵そんな質問には、「父の祖先は、元々近江商人で・・・、母の祖先は丹後の出身で・・・、
父方の祖母の家系は、伊勢志摩の方から・・・、母方の祖母は南北朝時代に播州から来て・・・、
・・・で結局みんなよそ者ですねん。

京の都は、元々平安京が、長岡京から移って船岡山から見下ろした地域に
朱雀大路・大極殿・西に右京、東に左京。都の原型が作られた。
以降「みやこびと」の仲間入りをする人たちが全国から続々京にやってきた。
それまで、都は、転々としていた。
京に移っても動乱は繰り返されたが、いつしかこの地はみやことなり、
「みやこ」が一人歩きを始めた。

そして、世界的にもまれな「みやこ都市」が完成したのである。
長い歴史の中で、政治や権力の実権は、鎌倉・大阪・江戸・東京へと移っても。
京都は、ここに住む都人と、この町を愛する世界中から訪れる人々の英知が常に注ぎ込まれてきた。
その知恵の秘密を、一つ一つ明らかにしていこう。

詳しく読みたい方は、続きをどうぞ。

☆ところで、このプロローグを、朱雀の章と名づける。
何章進んだところであなたは、すべての章の名前を見つけることができるのか?
最後の終章の名前まで見つけられたらあなたは相当な京都つうである。  続きを読む


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:00知恵の都 朱雀の章 プロローグ