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2007年06月08日

京都の中の東京

平安京が作られたとき、舟岡山を中心に右京・左京が作られた事は、これまでにも述べてきた。
残念ながら、この平安京の全体計画は、完成されないまま、右京は宅地化しきれないまま畑などになって、左京に都の中心が移っていった。
これは、治水がまだまだ完全ではなかった為に、東の左京より地盤が低い右京が、増水などのときに一般の民家が水没し、少しじばんが高く、元々湿地帯や鴨川などを、治水によって、周囲が宅地化できた結果、都の中心が東に移っていったようだ。このあたりの事情は、「アスニー」の平安京を学ぶ様々な取り組みでも紹介されている。ところで、中心部は、西が西京「にしのきょう」で東京「ひがしのきょう」が中心になっていったために、都も中心は、「東京」に移ったともいえる。後に治水が進み、今日独立していた伏見市や山科・洛西・京北が合流して、京都も拡大しているが、最初の都市計画の中で、中心となったのは、京都の中の東京という面白い結果になっている。


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Posted by AKIYUKI KOYAMA at 23:19 │水の都 藻壁の章 第3章