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2007年04月28日

平安京ができたころ

貴族などが着る服装を専門に管理する部署がつくられていた。
唐の都。遣唐使によって、当時の日本は中国の最新の流行や儀礼に使う様々な様式を取り入れた。そしてここに決定的な事実誤認があった。
日本史の授業でならったこんな事を思い出してほしい。
正倉院にも伝わった、「ペルシャ三彩」が「唐三彩」になり「奈良三彩」になったと。
ここには、事実誤認がある。
中国の歴史の中で、シルクロードの文化交流は、日常のものではあるが、唐の初期にペルシャは勢力を失うなかで、中国に多くの人々が亡命した。唐は「胡」の文化を、当時の流行のごとくに取り入れた。服装のその一つ。三彩も。ところが、やがてこのブームは中国では消えてしまう。
日本は、これを受け入れ、最先端の中国文化を取り入れた。
日本は、歴史的に様々な最先端の文化を受け入れ取り入れる。やがては日本文化の中に納まって伝えられていく。ペルシャや中国で失われた文化や技術が、保存されていくのだ。その最先端が平安京に伝わった。大和派と親中国派の戦いだ。吉野から植えられた桜と中国の象徴の梅の対決。
やがては、桜が花開いていく。しかし梅の残した上で。


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Posted by AKIYUKI KOYAMA at 00:57 │ファッションの都 上西の章 第5章