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Posted by 京つう運営事務局 at

2007年10月09日

海から遠い平安京

京の都は、海から遠い。もちろん川や湿原・池はあったが、『平安京』には、東西2つの「サバ街道」琵琶湖からの淡水魚。枚方位まで要りこんでいた大阪湾の海の幸もあったが、都の周辺は、田畑になっていった。東湿地帯は、埋め立てられて都市部に組み込まれる一方、桂川などの氾濫もあり湿地の住みにくさを改善できずに、当初の右京は、放置されていった。穀物などは、南の美福門から運び込まれたという。

もうお分かりでしょう。12章は、最初の平安京の門に由来しています。そして、それぞれの門の特色から、14章別にテーマを決めました。

更にお気づきだと思いますが、どのテーマも、「京の都」を、ジャンル別で表現しています。
14以外に、あなたにとっての都もあるでしょう。「○○の都」一様10月11日までに書き上げる予定で、14章来ましたが、各章への書き込みは、10月12日・13日を過ぎても続けます。
12日が、私の51歳の誕生日。13日が、家内の○歳の誕生日。31日が次女の○歳の」誕生日。
ちなみに、長女は、1月31日が○歳の誕生日。我が家の女性3人の誕生日は、数字の組み合わせが同じなのです。男の私だけ1つ足りないなんて、染色体みたい。

平安京は、現在の位置に移るまでに、天皇の住まいは、やや移動しています。通い婚が一般的な時代に、藤原氏が、勢力を持ち、平家もそうですが、周辺に屋敷を建て、寺院を建立しました。

図面どおりの平安京の形に、実際になった事は、なっかたそうで、大内裏から東へ、町が広がっていきました。今日までの様々な歴史を、テーマ別で考え、その中から「京都人の知恵の遺伝子」を探って生きます。   


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:44Comments(0)米・野菜・食材の都 美福の章 エピローグ

2007年10月09日

歌司と雅楽の門

都には、儀礼の為の歌司や雅楽と部署が、内裏の南西に置かれていた。その結果、近くにあった郁芳門(いくほうもん)は、通称「雅楽御門」また「歌司御門」などと呼ばれた。今日私の友人も、雅楽の保存会に参加し、時に京都御所で演奏している姿を見に行ったが、一つ一つの時代の中から、取り入れられて、そのすべてに居場所があるのが、「京の都の文化であり、京都人の知恵である。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:20Comments(0)音楽の都 郁芳の章 弟12章

2007年10月09日

シャチホコのある門

平安京の都の内裏に、シャチホコのついた門があった。
播磨国の建部氏の手によって作られた、待賢門である。
通常の、車寄せでもあったこの門に「手車」で駆けつけて、一部の特権階級以外は、ここで車を降りたそうだ。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:12Comments(0)名建築の都 待賢の章 弟11章

2007年10月09日

内裏の門12?14?

日本の都は、中国をモデルにして作られたコピーだったのは、『長岡京』まで。
門も12門とされ、12の干支・時刻・方位すべてが、規則のも続いて構成されていた。
平安京も、周囲の神社。岩倉。などが配置され、計画的に作ったはずだが、早々に、現実的に改良された。その例が、14門になったこと。
陽明門は、備前の山氏によって作られた。
有力氏族が作り、守った。
ところで、「陽明学」は、民代の王陽明に由来するので、平安京とは、時代が前後する。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 22:04Comments(0)学問・学校の都 陽明の章 弟10章

2007年10月09日

陰陽道の賀茂忠行

陰陽道は、平安京において立派な役職を与えられた賀茂家のある意味天文学をはじめとする重要な学問であり、いわば科学の始まり始まり的役職を持った人材育成学のようなもの。
今の科学技術+気象の省見たいな物。
そこで、優秀な為に、高く評価されたのが「安倍晴明」。最も、彼の末裔は、やがて官職を継いで行くが、賀茂家の受け継いだ天文学の知識に乏しかった為に、後にこれを吸収して地盤を安定させていく。ところで、陰陽師「安倍晴明」の墓は、『晴明神社』ではなく、『東福寺』にある。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:55Comments(0)科学の都 上東の章 弟9章

2007年10月09日

茶を飲む

茶が中国から伝わり、京都で作られるようになったが、内裏の北東の角には、茶園も作られた。
最初は薬用で、煎茶の文化、そして抹茶の文化。
誰もが知る日本におけるお茶の歴史は、やがて禅と交わり、茶道の道が開けていく。
華道・香道と共に。芸術の一言でも表現できない美意識と精神性。
私は、この都で花開いた世界を、芸事という表現でも表せない、限りなく宗教に近い心の修行の要素を強く持った世界を、私なりに『心美道』と表現している。
演劇や音楽が、縁者の内面から周囲の人に直接伝わっていくのに対して、心美同は、人の内面に深く染み込んでいく世界だと思う。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:39Comments(0)心美道の都 達智の章 第8章

2007年10月09日

玄武

京都の北に宿る。平安京の都を守る北の要として祭られた。
玄武は、蛇と亀を意味する。元々船岡山から見て作られたこの山こそ都を守る玄武そのものである。
大内裏の真北に位置する「偉鑒門」。開かずの門ともいわれるこの門は、北への備えとして「玄武門」とも呼ばれた。平安京の全体像を見たとき、内裏から南へ都が作られる。中国では、内裏の周辺なども防御の為に囲われて、門が作られたが、文字通り北は、開かずの門。
日本において、長岡京までは12門だが、平安京になって14門になった。
なんと北の東西の土塀を、物資の運搬がしやすいように、開けてしまったのだ。なんと安全神話がその頃すでに芽生えていたのだろうか。
各門は、北陸や東海山陽道などの有力者に命じて門を作らせ、門によって警護の形態も異なる。
有力者の顔ぶれをみると、当時の強力な支配地域が見えてくる。
平安京は、ようやく安定した都の始まりでもあり、争いの幕開けでもあった。  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 21:24Comments(0)神々の章 偉鑒の章 第7章

2007年10月09日

平安京は、なぜここに?

京都に生まれ育った私たちは、なぜ京都に都が作られたのかを、深く考える事はあるのだろうか?
水の話の中で、平安京建都の時。舟岡山から見て朱雀大路を中心に、桂川・鴨川の間に広がる盆地に、都が作られた。三方山に囲まれ、南は当時鳥羽が湿地帯と池。白川しかり。神泉苑しかり。船は、枚方まで「くらわんか船」が来ていた。(名前がいい。この名前をとったお店の天麩羅は、ごっついで!)。
 しかし、その前に、権力者となった藤原氏の旧姓は?中臣氏。そんな地名が山科にありましたよね。
菅原氏は、土師氏。そういえば、平安京の南西は、土師氏の勢力圏。北東の秦氏派、松尾大社との関係も。。
 もうひとつ。桓武天皇のお母さんといい、百済系の人脈が見え隠れするのは、私だけでしょうか?  


Posted by AKIYUKI KOYAMA at 02:23知恵の都 朱雀の章 プロローグ